わたしの原動力
現在、介助を中心的に担ってくれているのはヘルパーさんで、一人暮らしをしています。しかし、私も数年前まで実家で父と母の介護を受けて生活していました。父は朝から夜まで仕事をしており、母は家で家事をしてくれていましたが、その母も身体障害があり、体の自由がききませんでした。今考えると、生活を続けられていたことが不思議なくらいです。
家族介護を受けていた毎日
朝、出勤前の父に起こしてもらい、朝食を食べ、トイレに座らせてもらい、着替えをさせてもらうことから1日が始まりました。日中は母が、私が学校などに行くまで、そして帰ってきてから、身のまわりの世話と料理などの家事を全てしてくれていました。
父は帰宅後休む暇もなく、入浴の介助をしてくれていました。夜間も寝返りの介助が必要なのですが、私から呼ばれるたびに両親が起きて、手伝ってくれていました。
家族介護の限界
当時はその生活が当たり前で、私も両親も辛さよりも家族で毎日を過ごせる楽しさのほうが上回っていました。週末には買い物に行き、旅行などにも出掛け、充実した生活でした。
ただ、自分自身も無理をしていましたし、何よりも両親の負担は相当なものであったと思います。20代半ばになったとき、両親の体力が落ちてきていることを感じ始めました。
自分が動くことによって変化がおきた
2012年にNPO法人ユニバーサル・アクセス・デザイニングを設立しました。ですが、大学・大学院時代は政治学を学んでおり、NPOや市民活動とは縁のない生活をしていました。NPOや市民活動にかかわるようになったきっかけは、学生時代の経験からでした。
大学では介助が必要な車椅子学生へのサポートは十分ではありませんでした。諦めていましたが、必要に迫られることがあり、他の大学の例も知るうちに、大学に話してみようと思いました。話し合いを続けるうちに大学側が新しい制度を作ってくれました。
それまで、無力だから学校など環境を変えることは難しいと思って諦めていました。自分に力があるか関係なく、解決したいことに誠実に向き合い話し合うことで、少しだけ環境を変えられるかもしれないと思えるようになりました。
状況は変えられる
開業以来、小さな事業所ではありますが、少しずつ利用者さんとスタッフが増えていき、スタッフのおかげで介護が受けられずに困っている人がいる状況に少しだけ取り組むことができています。
状況を変えられないと諦めている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、NPO法人や訪問介護事業所の経験から、大きく状況を変えられなくても、少しずつ変えることは可能だと確信しています。
NPO法人や訪問介護事業所は今後も続けていきますが、私個人や1団体ができることは限られています。皆様の力をお借りし、小さな行動を大きな変化につなげていけたらと思っております。
後悔の念
非常に残念だったのは、母に事業所開設を見届けてもらうことができなかったことです。事業所準備期間中に、内臓の疾患が見つかり在宅での約4ヶ月の療養の末、亡くなってしまったのです。それはとても辛い経験でした。
もし、もっと早くヘルパーさんを頼んでいたら、母も自分の時間を持つことができ、好きなことをしてもらえていたのではないかと思います。その思いが事業所を運営するモチベーションになっています。
家族の絆を守るために
家族の困難なことは家族だけで解決しなければならないという意識が強いように思います。両親や祖父母の兄弟姉妹までを含めた家族で助け合える時代であれば、当然の意識であったと思います。
ですが、核家族化が進む中で、その小さな「家族」で解決できない問題も少なくないはずです。制度を整えなければその家族でさえもこの国から無くなってしまうのではという危機感も持っています。
私自身が制度に頼らず家族に支えられてきたからこそ、より強く思います。
足元を照らしてくれる存在
母が亡くなった際、友人である僧侶が「慈燈妙照大姉(じとうみょうしょうだいし)」という戒名をつけてくれました。
「渡邊さん家族にとって足元を照らしてくれる存在であって、今後もそんな存在であり続けるだろうという意味でつけました。」と説明してくれました。私自身の家族の経験が、私の進むべき道を照らしてくれ、ここまでに至りました。
今後はより良い千葉市を作るために行動していきたい。その際、私の足元を照らす存在として、多くの方に支えていただけたら嬉しいです。