
こんにちは、中央区選出の千葉市議会議員、わたなべただひろです。
皆様に選んでいただき,令和5年5月より任期がはじまりました。
皆様のご理解やご支援、本当にありがとうございます。千葉市議会初の車椅子議員ということで、千葉テレビ、千葉日報、朝日新聞などのメディアでも紹介されました。
所属委員会は保健消防委員会・広報委員会となり、福祉事業所への支援、新病院建設、防災ヘリの更新などの審議に関わり、市民の福祉医療向上、市の予算の有効活用のため、ご意見をお伝えしました。
皆さまからの声が政治を動かす原動力です。
今後とも一層のご指導を宜しくお願い致します。
わたなべただひろの活動
わたなべただひろ略歴
1987年 ダイエーに勤める父と保育士の母との間に生まれる、
出生後に筋ジストロフィーと診断。徐々に歩行が困難になる。
1999年 千葉市立打瀬小学校卒業
2002年 千葉市立打瀬中学校卒業
2005年 千葉県立幕張総合高校卒業
2009年 早稲田大学社会科学部卒業 車椅子で単独通学
2011年 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了
2012年 NPO法人ユニバーサル・アクセス・デザイニング設立。障害児進学相談、バリアフリー調査。
2013年 社会福祉士取得
2014年 アクセスデザイニング訪問介護事業所を設立(障害福祉サービス)
尊敬していた母を亡くす
2016年 パラスポーツを応援する企画を行う「OPENちば」を有志で結成
パラスポーツ体験会やカフェイベント、観戦ツアー等を実施
2018年 NPO法人主催で「誰でもビーチ」を実施
2019年 千葉市議会議員選挙に立候補するが落選 (2,155票)
五輪パラリンピックのボランティア登録
2023年 千葉市議会議員選挙に初当選 (3,786票)
わたなべただひろの社会活動
〇訪問介護事業所経営
アクセスデザイニング訪問介護事業所を経営。障害のある方に外出支援や居宅介護などのサービスを提供
〇「誰でもビーチⓇ」を実施
特殊なマット(モビマット)を敷き、通常であれば車椅子やベビーカー等で入りにくい砂浜を誰もが楽しめる空間にする活動を実施
〇海外を個人視察
アメリカ、フランス、デンマーク、台湾など個人的にバリアフリー視察
〇メディア掲載・出演
●早稲田学報 (2018年8月)
●選挙取材(NHK・首都圏ネットワーク、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞) (2019年4月)
●当選時報道(千葉日報、毎日新聞、東京新聞、朝日新聞、共同通信、千葉テレビ) (2023年4月・5月)
●毎日新聞「五輪パラリンピックの来る街で」(2019年10月)
●朝日新聞「障害者の議員、なぜ増えないのか 当選への壁は「特別視」」(2021年11月)
●ABEMA Prime「障害がある人はどう選挙に参加?」に出演 (2022年1月)
●千葉テレビ「特集 誰もが住みやすい街へ 花火大会で砂浜に車いす席」 (2023年8月)、「千葉市民花火大会 砂浜に車いす用の観覧席設置」 (2024年5月)
他
〇講師
●東京福祉専門学校ゲストスピーカー (2015年、2016年)
●DET(障害平等研修)ファシリテーター(2018年10月~2022年3月)
●ケアカフェいちかわ (2020年1月)
●東京都ガイドヘルパー講座講師 (2020年10月~)
●文京学院大学福祉ビジネス概論 ゲストスピーカー (2022年7月)
他
わたなべただひろの歩み

わたなべただひろの歩み

わたなべただひろ の活動

わたしの原動力
現在、介助を中心的に担ってくれているのはヘルパーさんで、一人暮らしをしています。しかし、私も数年前まで実家で父と母の介護を受けて生活していました。父は朝から夜まで仕事をしており、母は家で家事をしてくれていましたが、その母も身体障害があり、体の自由がききませんでした。今考えると、生活を続けられていたことが不思議なくらいです。
家族介護を受けていた毎日
朝、出勤前の父に起こしてもらい、朝食を食べ、トイレに座らせてもらい、着替えをさせてもらうことから1日が始まりました。日中は母が、私が学校などに行くまで、そして帰ってきてから、身のまわりの世話と料理などの家事を全てしてくれていました。
父は帰宅後休む暇もなく、入浴の介助をしてくれていました。夜間も寝返りの介助が必要なのですが、私から呼ばれるたびに両親が起きて、手伝ってくれていました。
家族介護の限界
当時はその生活が当たり前で、私も両親も辛さよりも家族で毎日を過ごせる楽しさのほうが上回っていました。週末には買い物に行き、旅行などにも出掛け、充実した生活でした。
ただ、自分自身も無理をしていましたし、何よりも両親の負担は相当なものであったと思います。20代半ばになったとき、両親の体力が落ちてきていることを感じ始めました。
自分が動くことによって変化がおきた
2012年にNPO法人ユニバーサル・アクセス・デザイニングを設立しました。ですが、大学・大学院時代は政治学を学んでおり、NPOや市民活動とは縁のない生活をしていました。NPOや市民活動にかかわるようになったきっかけは、学生時代の経験からでした。
大学では介助が必要な車椅子学生へのサポートは十分ではありませんでした。諦めていましたが、必要に迫られることがあり、他の大学の例も知るうちに、大学に話してみようと思いました。話し合いを続けるうちに大学側が新しい制度を作ってくれました。
それまで、無力だから学校など環境を変えることは難しいと思って諦めていました。自分に力があるか関係なく、解決したいことに誠実に向き合い話し合うことで、少しだけ環境を変えられるかもしれないと思えるようになりました。
状況は変えられる
開業以来、小さな事業所ではありますが、少しずつ利用者さんとスタッフが増えていき、スタッフのおかげで介護が受けられずに困っている人がいる状況に少しだけ取り組むことができています。
状況を変えられないと諦めている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、NPO法人や訪問介護事業所の経験から、大きく状況を変えられなくても、少しずつ変えることは可能だと確信しています。
NPO法人や訪問介護事業所は今後も続けていきますが、私個人や1団体ができることは限られています。皆様の力をお借りし、小さな行動を大きな変化につなげていけたらと思っております。


後悔の念
非常に残念だったのは、母に事業所開設を見届けてもらうことができなかったことです。事業所準備期間中に、内臓の疾患が見つかり在宅での約4ヶ月の療養の末、亡くなってしまったのです。それはとても辛い経験でした。
もし、もっと早くヘルパーさんを頼んでいたら、母も自分の時間を持つことができ、好きなことをしてもらえていたのではないかと思います。その思いが事業所を運営するモチベーションになっています。
家族の絆を守るために
家族の困難なことは家族だけで解決しなければならないという意識が強いように思います。両親や祖父母の兄弟姉妹までを含めた家族で助け合える時代であれば、当然の意識であったと思います。
ですが、核家族化が進む中で、その小さな「家族」で解決できない問題も少なくないはずです。制度を整えなければその家族でさえもこの国から無くなってしまうのではという危機感も持っています。
私自身が制度に頼らず家族に支えられてきたからこそ、より強く思います。
足元を照らしてくれる存在
母が亡くなった際、友人である僧侶が「慈燈妙照大姉(じとうみょうしょうだいし)」という戒名をつけてくれました。
「渡邊さん家族にとって足元を照らしてくれる存在であって、今後もそんな存在であり続けるだろうという意味でつけました。」と説明してくれました。私自身の家族の経験が、私の進むべき道を照らしてくれ、ここまでに至りました。
今後はより良い千葉市を作るために行動していきたい。その際、私の足元を照らす存在として、多くの方に支えていただけたら嬉しいです。
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